ねむけにたえる

連続的でシンクロニシティな日常。

要するに

要するな。謎に丸く収めようとするやつはなんなんだ。

先日久しぶりに小説を読んだ。文章を読むのは好きだけどいかんせん集中力が続かなかったり、終わりが見えてしまうのが嫌で最後まで読めないことが多い。活字中毒には程遠い。

 

今回読んだのは西加奈子の『舞台』だ。姉に誰の読んでるの?と聞かれて西加奈子、と答えたら あぁ西加奈子ね 笑 と言われた。 笑。笑?

小説を日常的に読む人からすると西加奈子は笑なんですか?(でも私だってEXILEを好んで聞いている人を「EXILEを好きな人たち」としてみている、無意味なカテゴライズをしてしまっている。)

 

数年前にブランチで紹介されててなんだかとても読みたくなってその日のうちに買いに行ったのに一度も読まず、数年が経っていた。

 

語彙力はないけど日本語の多様な表現は好きで文字がずらりと並んでるのは気持ちよかった。主人公の男がなかなかにめんどくさい人で同じことをぐだぐだ考えているのがよかった。

混沌は混沌のままでいい。「要するに」はナンセンスだ。といいながら自分で書いたなかなかにめんどくさい人というまとめ方は雑すぎるし的を得ているわけでもない。語彙力の無さだ。悲しい。

 

拡大解釈を見せられるのが嫌いなわりに自分ではしてしまうので身近な人や自分が考えていることを置き換えた。この前の切れ端をメモ帳にそのままにしていたのがよかった。

 

山田孝之のカンヌで素人と芝居をしたことがあるかと尋ねられた芦田愛菜に対して 山田は

「大丈夫です。みんな常にしているから お芝居は。」と言っていた。

私のメモには自分の条件反射で泣けるところが嫌いと書いてあった。(ポエミィ!)

 

西加奈子 舞台では 「俺はいつだって演じている。何かを。」という一節があって、 そのあたりから脳内再生はBUMP OF CHICKENで透明飛行船。

 

「多分 平気なふりは人生で わりと重要なスキルだと思う

多岐にわたり効果示すので 使用頻度もそれなり

人の多くはその熟練者で大概の焦燥は隠せるが 

人の多くがその熟練者だ大概はばれていたりもするが」

 

偶然なのかなんなのか その時考えていることに取り巻く環境がひっついてくることが多々ある。シンクロニシティ

こういうことが多いと世界は自分中心に回ってるって再認識しますね!ワールドイズマイン!

英語言いたいだけだろって思ってるでしょ。

新しく知った言葉とか考えていることが他人の会話とかテレビの話題とかでも特によく聞こえてくるのはカクテルパーティ効果と言うそうですよ。(心理学の授業で違う表現で習ったんだけどなんて言うんだったか思い出せない)

 

「要するに」も 「日常的なお芝居」も「無意味なカテゴライズ」もなんであたりまえに行われているのかというと多分そっちの方が都合がいいからなんだと思う。わからないものは怖い。いろんなふりを お芝居を しながら生きていて、気がついたら熟練者になってしまったから ナンセンスだといいながらお芝居をしてしまうし、それが自分でもわかって恥ずかしくなる。きっと周りにもばれている。

こいつとは分かり合えねぇと思ってもワールドイズマインだから多分そいつも私の一部だ。おそろし。

 

そうすると「要するに」しようとしてたのも自分だから「要するに」の何が悪いんだかわからなくなってくる。ずーっとこうやってぐるぐるしてるのが好きだ。たまにこういうことを人を巻き込んでやりたくなるけど、丸く収めようとされるので自分1人でやってる方がいい。

 

月曜から夜ふかしです。

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